冬の荒天が春の好天に転じつつある今日この頃、青空の続く日々に心躍らせる一方、心の曇るようなニュースも絶えません。
一難去ってまた一難、とは言いますが、コロナ禍の終息もまだ見ぬうちに、ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、我々の「当たり前だった日常」が再び脅かされることとなりました。
日本にいたころは、ヨーロッパの出来事はどこか遠くの、あまり関係のない地域での出来事、という認識もあり、「時代の目撃者」等と言う洒落込んだ表現を耳にすることもありましたが、欧州で生活していると、電気代やガソリンの値上げといった間接的な関わりから、実際に家族・友人がウクライナやロシアにいる人との繋がりまで、「当事者」に近い感覚になります。
ほぼ単一民族国家である日本と違い、ヨーロッパにいると常日頃、様々なバックグラウンドの人たちと関わりを持つことになり、それぞれの国で、多様な民族からなる文化・生活様式が創られてきたことを感じます。
その一方で、東欧も西欧も(そして近年欧州で増加中のイスラム教も)元を辿ればユダヤ教に端を発し、カトリック、プロテスタント、正教会と別れてなお、同じ神様を信じて奉じて来た事実は、神様の普遍性と人間の愚かさを改めて我々に突き付けているように感じます。
オリエントの一民族の神様でしかなかったユダヤの神を、信じ、後世に伝え、そしてユダヤ以外の世界中の民族に向けて伝道してきた預言者や弟子たち、中世以降の聖人たち、そして近現代の数多の宣教師・伝道師たち…数えきれない人たちの信仰の行きつく先の一つに今回の戦争があるとすれば、時を経ても変わることのない人間の弱さを痛感します。
事態の一刻も早い収束、犠牲の可能な限りの最小化、そして、愚かな我々への神の許しを求めつつ、先日の礼拝後に皆で捧げた「コヴェントリー寺院の祈り」を、改めて祈りたいと思います。
コヴェントリー寺院の祈り
国と、人種と、階級を分裂させる憎しみを、
父よ、赦したまえ。
自分に属さぬものを所有しようとする国と個人の欲望を、
父よ、赦したまえ。
人間の労苦を悪用し、地球を荒廃させる貪欲を、
父よ、赦したまえ。
自分以外の者の幸福や繁栄を羨む思いを、
父よ、赦したまえ。
家を失った者、他国から逃れてきた者の苦境に対する無関心を、
父よ、赦したまえ。
男女を問わず、人間の体をいまわしい目的のために用いようとする欲望を、
父よ、赦したまえ。
自分に依り頼み、神に信頼することを望まない傲慢を、
父よ、赦したまえ。
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